この日本が失敗に寛容な国になるために
こんにちは。
先日行われた、「マラソン・グランドチャンピオンシップ(MGC)」でのコブクロ・小渕健太郎さんの国歌独唱が反響を呼んでいますね。
TV中継でご覧になった方も多いのではないでしょうか。
その後、ギタリストの布袋寅泰さんがインスタを通して、小渕さんの気持ちを察し、高音で歌わざるを得なかった理由を推察してyahooの記事になりました。
YouTubeの動画コメント欄には、小渕さんを応援する声もある一方で、匿名を利用した心ない言葉を投げかける内容も多く、全くの第三者である私が目を通しても読んでいて気が滅入ります。
私も布袋さんの「ただ、力ある素晴らしいシンガーの一度のミスを、寛大に受け入れようとしない風潮を、僕はとても寂しく思う」という言葉にとても共感しているところ。
そう、この日本という国は、なぜこんな失敗に対して不寛容な国になってしまったのでしょうか。
失敗って何だろう?
そもそも、人生に、物事に、失敗ってあるのかな?
ずいぶん前に私はそんなふうに思ったことがあり、「失敗って何だろう」と追究したことを通して、今では「失敗なんてものはない」という結論に至りました。
「失敗」の定義を自分の中で変えたんです。
失敗とは、
「思った通りの、期待通りの結果が得られないこと」
「理想の結果を得るためのプロセス」
「それ以上でも、それ以下でもない」
それ以来、私の中で「失敗」はなくなりました。
小渕さんのように、一世一代の舞台での大勝負というのは人生に頻繁に起きることではないけれど、日常のなかでの「うまくいかせたいシーン」はたくさんあって、思い通りに期待通りにうまくいくこともあれば、そうではないことだってある。
うまくいかなかった出来事をどんな風に自分の中で「経験」として取り込むか、それが自分のキャリアをしあわせに導いていくにあたって重要だなと思います。
いきなり未来の「how」を考えても出てこない
ここでいう、「経験」というのは、「出来事+思考・感情」を指しています。
出来事自体は何の意味も持たないけれど、その人特有の捉え方によって、どんな考えでどんな気持ちが伴っていたのかを含むと、「経験」はその人にとって唯一無二で、同じ出来事を経験しても一人ひとり異なった経験をすることになります。
だから、経験を聴いていくと、その人らしさ(自己概念とも言いますね)が姿を現してくる。
キャリアコンサルティングをしていると、「うをぉ、出てきた、出てきた!」みたいに、その瞬間がおもしろかったりします。
クライアントは自分にとっては当たり前の経験を語りを通して言語化し、それをキャリアコンサルタントはその経験がクライアントにとってどんな意味があるのか、そして、その人らしさが出てくるように働きかけながら聴いていきます。
「あなたの言う失敗って、どんなところが失敗って思うのですか?」
「ルーティンが嫌、何か手を加えたいというのが、あなたにとっての”やりがい”なのですか?」
「その話してくれた経験と、今の仕事とどんなつながりがあるんでしょう?」
などなど。
自分らしさが出てきて、それに気づくと、そんな自分を受け容れられて、リカバリーのための今後の「how」が考えやすくなるんですね。いきなり、それをすっ飛ばして、未来の「how」を話してもらっても納得感がないし、気持ちが落ち着かない。
不思議ですね。
失敗に対して不寛容な理由
失敗に対して不寛容なのは、私たち一人ひとりの大人に余裕がないことがあると思いますが、掘り下げていくと、失敗を許してもらえなかった経験が根深く残っているのかなとも感じています。
それは、もちろん他人だけでなく、自分も含めて。
失敗を許してもらえなかったと同時に、そんな自分を受け容れられず、自分をも許すことができなかった経験。
過去の出来事は変えることはできないけれど、過去の「経験」はいくらだって変えられます。語ることによる経験の再現を通して、経験の再構成ができるからです。
一人ひとりが失敗に対して寛容になるといい。
そんな社会が作れたらと、キャリアコンサルティングを通して祈っています。